2017年12月の記事一覧
2017.12.10 2017ウインターカップ選手名鑑13日発売!
2017.12.10 バスケ本ご紹介 「高校バスケは頭脳が9割」
2017.12.09 インカレレポート3 九州産大・金丸兄弟シューターの極意を伝授
2017.12.08 日本学園 大浦博信コーチ逝去。最後の最後まで… 追記とともに、奥様の言葉全文掲載
2017.12.06 インカレレポート2 故・小林平八(中京大監督)が託した20年前の約束
2017.12.05 インカレレポート1 神奈川大の“原点”
2017.12.10 バスケ本ご紹介 「高校バスケは頭脳が9割」
2017.12.09 インカレレポート3 九州産大・金丸兄弟シューターの極意を伝授
2017.12.08 日本学園 大浦博信コーチ逝去。最後の最後まで… 追記とともに、奥様の言葉全文掲載
2017.12.06 インカレレポート2 故・小林平八(中京大監督)が託した20年前の約束
2017.12.05 インカレレポート1 神奈川大の“原点”
2017ウインターカップ選手名鑑13日発売!
2017.12.10

2017ウインターカップ選手名鑑
お待たせしましたっ!!
今年も“ウインターカップ選手名鑑”が発売されます。
東京体育館に行く人は観戦のおともに、
スポナビで見る人もお手元の資料に。
チーム、一家に1冊、いや1人に1冊はキープしましょう。
私の知り合いは観戦用と保存用に2冊買っています。
12月13日発売
定価:926円+税
全国書店&アマゾン
amazonの予約は
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なお、大会期間中は、千駄ヶ谷駅前のニューデイズでも臨時販売するそうです。
ちなみに、男子クローズアップチーム、福岡大附大濠、福岡第一、洛南、女子開志国際
男子注目選手はほとんど、男子ブロック展望をはじめ、各チームのページなど寄稿しています。
清水広美
バスケ本ご紹介 「高校バスケは頭脳が9割」
2017.12.10
「高校バスケは頭脳が9割」
なぜ同じ高校生なのに「差」が生まれるのか!?
バスケiQが高まる強化書
三上 太 東邦出版 1500円 12/20、本日発売

技術本だと思っていたら、いい意味で裏切られました。バスケIQを高めるための方法論がテーマですが、チーム訪問で著者が感じたことの随想記でもあります。
実は以前私がツイッター、Basketball Lifeにも書いた岐阜女との出会いについても書かれてました。
山形商・高橋先生、明成・佐藤久夫コーチ、尽誠学園・色摩拓也先生、岐阜女・安江満夫先生、市船橋・近藤義行先生と
5人のコーチの考えの一端を知ることができます。
私ならどこのチームに行くかな?
選手、指導者、父兄、ファンと幅広く興味を持って読める本です。
amazon
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楽天ブックス
https://books.rakuten.co.jp/rb/15230339/
なぜ同じ高校生なのに「差」が生まれるのか!?
バスケiQが高まる強化書
三上 太 東邦出版 1500円 12/20、本日発売

技術本だと思っていたら、いい意味で裏切られました。バスケIQを高めるための方法論がテーマですが、チーム訪問で著者が感じたことの随想記でもあります。
実は以前私がツイッター、Basketball Lifeにも書いた岐阜女との出会いについても書かれてました。
山形商・高橋先生、明成・佐藤久夫コーチ、尽誠学園・色摩拓也先生、岐阜女・安江満夫先生、市船橋・近藤義行先生と
5人のコーチの考えの一端を知ることができます。
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インカレレポート3 九州産大・金丸兄弟シューターの極意を伝授
2017.12.09

#11金丸亮太、#7米須楽人

インカレレポート3
九州産大・金丸兄弟シューターの極意を伝授
兄弟、親子シリーズ
去年九州産大は、最後の最後に出場権を逃してしまった。
最後に鹿屋体大と対戦、勝てばインカレという状況下敗れ、4位に終わったからだ。
毎年4年の先輩が築いてきた。今年は自分たちの代でもあり、何が何でもインカレに出ることに照準を合わせてきたと、キャプテンの#11金丸亮太は言う。
「小・中・高・大とやってきて、自分にとってのインカレは学生最後の全国大会。卒業しても社会人として続けますが、
学生と社会人では違う。学生しか体験できないインカレを楽しみながら勝ちに行こうとみんなで臨みました」(金丸)
明治大と組み合わせが決まった時は
「自分たちより格上というのはわかっていたので、スタッフが徹底に分析して、対策を練ってきました。
断然大きいのでボックスアウトの徹底だったり、アンソニーが退場した時にどうするかを
スタッフが何回もミーティングしてくれました。九州リーグでもアンソニーにファウルがこんでしまうので。
インカレは一発勝負。いなくなるとすごく小さくなるので、小さいなりにどう守るかを考えて練習してきました」
実際には明治の司令塔である#2斎藤にかき回された感はあった。
「斎藤君が軸であることは何回分析をしてもわかっていたので、ボックス&ワンをしいたのですが、
レベルの違いを感じさせられました」
金丸の兄は、対戦相手・明治大OBである金丸晃輔(シーホース三河)だ。
座右の銘は兄と同じく“謙虚”。小さいころから、兄の影を追いかけてきた。
福岡の実家にたまに兄・晃輔が帰ってくるとやはりバスケットの話になる。
「プロの選手はそういういろいろなことを考えながらやっているんだな」と身近な存在である
兄の話に耳を傾けてきた。
お互い3ポイントシュートを武器としたシューターとしてやってきた。
小学校まではインサイドだったが、本格的にシューターとなったのは中学の時。
最初は全然入らず、手首の返しをはじめシュートに関する細かいことは兄から学んだ。
福大大濠高に進んでも「兄がシューターなんだからお前もやれ」と、田中先生、片峯先生から言われたのも無理はない。
シューターとして、兄から伝授された極意は
「兄と同様に爪を意識しています。爪がボールにひっかかって“カシュ”という音がした時は
最後まで指先をとおりボールに回転がよりかかりまっすぐ飛ぶので入るというイメージがありますし、
自分の中で浸透しています。
爪の手入れも、ひとさし指、中指と薬指の3本をそろえてます。リリースの時その3本が最後になるので。
伸びてきたり、割れそうだなと思った時は細かく切っています」
割れてしまった時はシュートが基本的に短くなってしまうそうだ。
ちなみに、九産大には、他にも兄弟、親子でバスケットボール関係の家族が多い。
2年の#7米須楽人の弟は、今年の全中オールスターで準優勝した長崎のシューターとして活躍した米須玲音(日野中)。
「すでに、弟には身長を越されました(笑) プレイはまだ負けてないと思います。弟のレベルは高く、将来はプロを目指していると聞きました。
(インカレで感じたことは)
関東の選手は今までビデオでしか見たことがありません。身体も早さも違う。
今年は4年生のおかげでインカレにこれて、斎藤さんとマッチアップ。後半はフェイスガードでつきましたが、
身長もさほど大きくないのに大きな選手に挑んだり、スクリーンもかわし、
身体の使い方も上手。それがわかったのも直接マッチアップができたから」(米須)
高倉司監督の息子さんは、東海大、拓殖大(キャプテン)でプレーヤー。とどめは、1年の#32アンソニー・ラングストンの父は、住友金属でプレーしていたディアンソニー・ラングストンなのだ。

最小6点差まで詰め寄ったが、逆転にはいたらなかった。
日本学園 大浦博信コーチ逝去。最後の最後まで… 追記とともに、奥様の言葉全文掲載
2017.12.08
日本学園・大浦博信コーチ逝去
「最後の最後まで」

平成29年12月3日夜、日本学園バスケットボール部
大浦博信コーチが天に召されました。享年42才、早すぎる旅立ちです。
12月8日、お通夜にうかがい、大浦先生と最後のお別れをしてきました。
ライターの小永吉さんと待ち合わせしていた最寄の千歳船橋駅の改札口にはそれとわかる人たちが
たくさん同じように集まっていました。Nのマークの日本学園のエナメルバッグを肩にかけた集団が
「南口だ」と同じ方向に向かって小走りに向かう姿も見かけました。
さらに、斎場の東京メモリアードに着くと、それはそれは多くの人・人・人で埋め尽くされていました。
大浦先生のお人柄、存在感を物語っていました。バスケットボール部、中学、高校の教え子に限らず、
OB、父兄、バスケットボール関係者の姿も多く、日体大関係者、東京都高体連の先生がたもたくさんいらしてました。
多くの弔問者の中で頭一つ抜きん出ていたOBの一人、ビッグマン土井君の姿を見つけるのは容易でした。
私が偶然訃報を知ったのは土井君から。
大浦先生の故郷・仙台からも、恩師で現在は明成高校コーチである佐藤久夫先生をはじめ仙台高校関係者が
早くから会場入りして日帰りすると、中学生の父兄が並んでいたところにやってきて、教えてくれました。。
祭壇にはボーダー柄のシャツを着た元気いっぱいの大浦先生の写真が笑っていました。
会場の一角、お清めの場には日本学園が出場した関東大会、ウインターカップ当時の写真、似顔絵、着用していた
ウエア、シューズが並んでいます。
お清めの場には、2015ウインターカップ、弘前実業戦のビデオが流れていて、その前でずっと立ち尽くしている方の気持ちがひしひしと伝わってきます。
「早すぎるよ…」
奥様の礼状にまた泣かされました。
(※全文掲載許可をいただきました。ありがとうございます)
★☆ ★☆ ★☆ ★☆ ★☆ ★☆ ★☆ ★☆ ★☆ ★☆ ★☆
「幸せな日々をありがとう」
~絆の糸はこれからも結ばれたまま
バスケットボールに自分のすべてを注いだ人生。
そう表現していいほど、夫は力を尽くしてまいりました。
そのスポーツに出会ったのは、確か小学生の頃だったと聞いたような気がします。
以来、中学・高校と進学してからも続け、教員の道を選んでからも“指導者”としてバスケットボールに携わりました。
自身が高校生の頃、全国大会に出場して知った喜びを“教え子にも味わってほしい”と思っていたのでしょう。自宅で試合の
映像を何度も見つめては、それをもとに新たな作戦を練ったり、個々への指導方法を考えてたりしたのだと思います。
こうと決めたら譲らぬ芯の強さが、生徒さん方にも伝わったのか、二年前にウインターカップへの出場を決めたときには、
沢山の方が自分のことのように喜んでくださいました。隣でずっとも願い続けてきた私も、言葉にならないくらいの嬉しさを噛みしめたのは言うまでもありません。
高校時代の恩師は、夫にとって憧れの存在でした。
「いつかは同じ舞台で立って戦いたい。そして、握手をするのが夢。ひれまでは倒れられない」と口にしていました。
対戦はかなわなかったものの、ともに全国大会に出場できたことは何にもまさる喜びです。
夫 大浦博信は、平成29年12月3日、満42歳にて生涯をとじました。
「結婚できて良かった。私は本当に幸せ者です」
そう伝えて、一緒に過ごした日々を抱きしめて生きていきたいと思います。
人生の途上で出会い、支えてくださった皆様へ深く感謝申し上げます。本日はご多用の中、ご会葬をいただき
誠にありがとうございました。略儀ながら書状をもってお礼申し上げます。
★☆ ★☆ ★☆ ★☆ ★☆ ★☆ ★☆ ★☆ ★☆ ★☆ ★☆
私が大浦先生に初めて声をかけたのは、仙台高校体育館でした。
チームの主力、スターターとして活躍していましたが、高3のインターハイ直前に前十字じん帯切断というアクシデント、最後の年を棒に振ってしまったのです。ケガをしたあと、指導者の道を恩師である佐藤久夫先生に志願。後輩の指導、勉強とともに毎日体育館にいました。
そして、1浪の末翌年には日体大へ進学しました。学生時代から日本学園に学生コーチとして通い、卒業後に保健体育教員として赴任されました。
仙高で同期のシューター相澤義政さん(現在・順天堂大女子ヘッドコーチ)はこう証言します。、
「多分、仙台高校に残ったあの1年で久夫先生とともに過ごして、指導の道に目覚めたのではないでしょうか。
日本学園の垂れ幕も仙台高校と同じ“心技一体”でした。その思いを継いで、
僕ももう1回順天堂大で頑張りたいと思います」
日本学園のある明大前には、東京ではありえない仙台の風が吹いていたようです。
東京都高体連の先生はこう話します。
「日本学園は明らかに他の東京のチームとは一線を画していました。
とにかく、鍛え抜かれているんです。だから、最後まであきらめない精神的な強さを感じました。
大浦先生は、これからの東京を背負っていくコーチだと思っていました。
それだけに本当に残念です」
かつて仙台高校がウインターカップ出場のために東京に来るたびに、日本学園は練習会場になっていました。
その練習を部員がステージに全員が腰をかけて見学していました。
初めて195㎝オーバーの選手、あの土井君が入学する前のウインターカップでは、試合の合間にこっそり
「こういう選手が入るんですよ、ようやく全国に向け勝負できます」
と教えてくれた時の力強い瞳は今でも忘れられません。
そして、2015年のウインターカップ初出場。東京都予選の時には、逐一恩師から
「今、どうなってる?」
と電話がかかってきました。初めての全国大会出場が決まった時には
「良かった良かった‼︎ 自分のことのようにうれしい」と、恩師は声を弾ませました。
本番のウインターカップの時にはコートサイドで観戦。実はこの時、病魔に襲われていたことは一目瞭然でしたが
そのことに触れませんでした。でも、今だから言えるのですがご自分でカミングアウトされました。
もちろん、それを原稿で触れる必要性はないと思いました。
と、同時に屈強なバスケットにかける情熱で病魔に打ち克ってほしいという希望と多大なる期待をかけていました。
奥様の文に出てくるように、いつか恩師と対戦をしたい、そして握手をかわすのが夢だという話は何度も聞いていました。
今年の夏は宮城のお隣・福島インターハイを狙っているという話も聞きました。
日本学園はベスト8決定戦で62-66で八王子学園八王子に敗れました。
東京都男子は、ウインターカップはベスト8のチームで争うため、同時に冬の切符からも遠ざかってしまいました。
この秋、先生をとりまく状況は一進一退を繰り返していたそうです。
体調が悪い時でも「試合に行かないとダメだ」と自らを鼓舞して奥様の手を借り、体育館に駆けつけることも。
元気な時は、練習にも姿を現し車椅子からマイクを持って3時間もの指導に当たったのたとか。
新人戦第一支部では優勝しました。状況を聞く限り、凄いと思うのですが
「いや、これからが本番」と、その目は全国での勝負を見据えていました。
まさに、最後の最後まであきらめないという自らの身上そのものでした。
壮絶なるバスケットボール指導人生。
夢半ばにして天国に旅立ったのは、とても無念です。
その遺志を、日本学園バスケットボールの皆さんに受け継いでほしいと思います。
※写真は出口で許可をいただき(多分OBで私たちのことも知っていたと思います)
撮らせていただきました。




最後の写真は、叶わなかった恩師との対戦でしたが、
昨年の夏、明仙バスケラボで行われたキャンプで
恩師佐藤久夫氏、台湾・松山中高・ローマン氏とともに撮った一枚です。
※追記 佐藤先生とは会場でお会いできませんでした。日学中学生の中に知り合いの息子さんがいて、
その兄が明成の選手です。葬儀には兄も来ていました。会場にぎっしり詰めかけた弔問者を前に
兄に向かって先生はこう言ったそうです。
「見よ、大浦の人柄が人を集めた」
戒名には、“博籠” “徹心”という文字が並んでいました。名前の一文字と籠球(バスケットボール)の文字。
告別式でも、バスケ一色。日本学園の校長先生、ご友人代表、前キャプテンと、現キャプテンが弔辞を
読まれたそうです。
大浦先生のご冥福を心よりごお祈りします。
合掌
清水広美

インカレレポート2 故・小林平八(中京大監督)が託した20年前の約束
2017.12.06
インカレレポート2
故・小林平八(中京大元監督)が
ルーキーに託した20年前の約束

早稲田大18森井をマークする51粂
中京大はかつて、小林平八監督の下1963年から1990年にかけて東海学生リーグ28連覇という大記録を打ち立てた。
それが1991年に愛知学泉大によって途絶えた、学泉大が優勝その後2005年まで15連覇を数えた。
中京大のインカレ最高成績は、1997年の土田 亨キャプテン(能代工。現在は横浜で高校教員)の代に決勝リーグ入りした4位だ。翌1998年、小林平八氏が亡くなった。
亡くなる1週間前、当時愛知工大名電から入学したてのルーキー松藤貴秋が小林監督の部屋に呼ばれ、こう告げられた。
「お前が舵を取れ!!」
それがどういう意味かはなんとなくわかったものの、なぜ入学したての自分に白羽の矢を当てたのか。松藤はずっと考えていた。大学4年時にはキャプテンを務め、西日本学生準優勝に導いた。地元・神奈川県の教員採用試験に受かり、
伊勢原市で中学校の教員となった。同時に、学校の許可を取り無報酬で埼玉ブロンコス、豊田通商とプレイも続け、2足のわらじをはいていた。その後大学院に通い、2008年中京大にコーチ着任、2013年から部長・監督となった。9年目の今年、ようやくベスト8入りを果たした。
ベスト8入りを決めた早稲田大戦のゲームプランはこうだった。
「(早稲田のPG)18森井君のところからどれだけアシストをださせないようにするか。
やられていいところと、そうじゃないところをハッキリする。
7石原君も怖かったんですが、最後は他の選手を輝かす森井君だと思っていた。森井君が生きてくると脇役までやられてしまう。
逆にサイズが小さくなった分だけやりづらかった。センターの26富田君が出てくると思っていたので、準備をしていた。
8新川君とか27濱田君が出てきたほうがやりづらかった」(松藤監督)
予想外に途中で点差が開いたものの、最後早稲田にまくられてアップアップ。
リードしたことで逆に焦ってしまった。
「東海リーグでもそんなにリードできない(苦笑) 逆に受身になってその点数を守りに行ってしまった。
ほとんどボード使わず、気持ちのことばかりを指示していました」
結局、66-58でアップセット、ベスト8入りを果たした。
中京大のチームビルディング
東海リーグも昔に比べ様変わりしてきている。留学生がいるチームも多くなってきた。
しかし中京大に、背の高い選手はいない、もちろん外国人もいない。
ディフェンスをコツコツやるのは当然で、あとはボールをみんなでシェアしてパスを回す。
誰か1人でやるのではなく。44伊藤が中心にみんなでボールを動かす。インサイドアウトのバランスを使いながら、
「地道にフリーを作って積み上げていく。ずっとやってきたことです」
今年のよさは、2・3・4年のバランスがいいことをあげる。
試合に出てない選手もたくさんいるが、彼らたちが一生懸命練習、下級生の面倒を見る。
「去年名古屋経大が8強となり、久々にシードを東海リーグにもたらしました、
そのシード権を守れたので、東海学連理事長としてもうれしい。プレッシャーかかってました(笑)
もう一つ勝つと、東海学連にインカレ出場枠が増える。
それは地方にとってくるとめちゃくちゃうれしいこと。
欲を出したい。選手はみな頷きました。
オールジャパンがあったら、正月までできるという話ができたんですけど。
今年からインカレ枠がないから、最終日までユニフォームを着れるけど、次も欲を出そうと。
神奈川大だってやった。俺たちもやれる。
今年のチームは、4年2人に下級生がどうからむか。
下級生がミスしても思い切ってやっていいぞと許してくれる4年がいました。
数年前のほうが能力の高い年はありましたし、そっちに期待していた」と言い切る。
松藤自身が余裕が出てきたのかもしれない。
大型選手がいるチームを想定してやってきた。
地方のチームの頑張り。そのために大学の教員になったようなものだ。
当初、大学に戻るつもりはなかった。戻ってからは、
「何とか関東中心の学生バスケット界に一石を投じたい。
それがなくなってしまうと、意味がないと思っている」
2人のキャプテン
ゲームキャプテンの44伊藤はバスケットで引っ張るタイプ。
チームキャプテンは、81木島。コート以外の部の規律とかチームをまとめてくれる。
役割分担ができている。調整役だ。
チームキャプテン(部長)の木島は言う。
「僕としては、キャプテンと部長の違いは何かと考えました。
キャプテンはバスケットのこと、試合のことだけを考えてくれれば、チームを引っ張ってくれればいい。
部長はそれを影で支える。
大和(伊藤)がストレスになることは全部自分がやる。それでチームのプレーが底上げされるならやっていきたいと思いました。
去年のリーグが終わってすぐ、来年どうする、という話になって決まった。
この1年、充実して早かった。毎日、自分がやらなくてはいけないことを探していました。
自分しかできないことをやるようにしていました。
全員が気持ちよくプレーできるように。それがやりがいでした。
言葉じゃなく、行動で示せればいい。
部員が乗る大きな船の舵は松藤先生が取るんですけど、
僕らクルーがどうつながるかも大事だと思って、僕が中間にいて学生と先生の距離が近くなって、
今、チームの雰囲気がいい。
一口にベスト8といっても大変です。
うれしかったけど、まだ引退じゃなくてバスケができるんだという喜びがでかかったです。
強くなったのは東海で競いあえたから。シードも名古屋経大のおかげです」(木島)

センター笹井、ベンチの端に木島は陣取る
ゲームキャプテンの伊藤は、
「学校面では木島にやってもらって、申し訳ないと思っています。
自分はバスケットの面だけ。試合で流れが悪かったら、ディフェンスで守りきれていないところ、
集中できていないところを僕は喝を入れていきたい」と、語る。
2人のキャプテンの仕事は、松藤が4年のキャプテン時にやっていたことを分担しているような気がする。
それぞれの良さを引き出して、なおかつまっとうさせたことが成功につながった。

意識改革
今回、中京大のがたいの良さが目を引いた。スレンダーな伊藤以外はみないい身体をしている。
全員でトレーニングやらない時も個人でトレーニングして意識は前より高まっている。
特に、新潟商時代は控えだったスモールセンター30笹井はがたいを生かしたプレーにとどまらず、絶妙なアシストも見せる。
「率直にうれしい。去年インカレに出れなくて、1年間積み上げてきました。
ディフェンスから。ウエイトもたくさんやって、“基礎から作り直そう”と始まりました。
自分の取りえは、センターとして背は高くないんですけど身体を張ったプレーとか、中でも器用にやれること」と、
笹井は胸を張る。
「東海リーグでも年々留学生が増えてきて、名古屋学院1年の王とかはフィジカルが強くて技術も高い。
関東のチームも身体が強いので当たりが強いので日頃から意識してやっています。
早稲田戦の勝因は、ベンチもスタンドの応援席も一丸となって戦えたこと。
それが後押しとなった」と、言う。

「お前が舵を取れ」
あの時の松藤は大学1年、18歳だった。普通の監督ならば、ルーキーにチームの命運を託さない。
さすがは小林監督、先見の明の鋭さに脱帽だ。
その思惑通り、次代に継承された。
「20年かかりました。もう38歳。教員として戻ってくるとは思わなかったですけど、
大学に戻って9年。長かったなぁ。やっと勝てました。
過去選手はもっと今よりもいい選手がいましたけど、なかなか勝てなかった。
僕自身がその目線に行くまで時間がかかったのかもしれない。
変に関東のチームばかり意識したし、変に自分たちの足りないことばかりを求めていた。
リクルートも、時間がかかりましたが高校の先生がいい選手を送ってくれてありがたいです」
松藤監督は、選手に、高校の監督たちに感謝する。
天国の小林平八・元監督は今大会の中京大の躍進をどう見ているだろうか。
西日本準優勝は大学4年時の2001年、監督として2014年の2回。
東海リーグ制覇は2014年。24年ぶり29回目のリーグ王座奪回だった。
今年インカレベスト8。
おそらく、眉毛をぴくりともせずに、ニヤリ一言。
「まだまだだ!」
51人の部員を乗せた中京大の新たな船出は、舵を切ったばかりだ。
故・小林平八(中京大元監督)が
ルーキーに託した20年前の約束

早稲田大18森井をマークする51粂
中京大はかつて、小林平八監督の下1963年から1990年にかけて東海学生リーグ28連覇という大記録を打ち立てた。
それが1991年に愛知学泉大によって途絶えた、学泉大が優勝その後2005年まで15連覇を数えた。
中京大のインカレ最高成績は、1997年の土田 亨キャプテン(能代工。現在は横浜で高校教員)の代に決勝リーグ入りした4位だ。翌1998年、小林平八氏が亡くなった。
亡くなる1週間前、当時愛知工大名電から入学したてのルーキー松藤貴秋が小林監督の部屋に呼ばれ、こう告げられた。
「お前が舵を取れ!!」
それがどういう意味かはなんとなくわかったものの、なぜ入学したての自分に白羽の矢を当てたのか。松藤はずっと考えていた。大学4年時にはキャプテンを務め、西日本学生準優勝に導いた。地元・神奈川県の教員採用試験に受かり、
伊勢原市で中学校の教員となった。同時に、学校の許可を取り無報酬で埼玉ブロンコス、豊田通商とプレイも続け、2足のわらじをはいていた。その後大学院に通い、2008年中京大にコーチ着任、2013年から部長・監督となった。9年目の今年、ようやくベスト8入りを果たした。
ベスト8入りを決めた早稲田大戦のゲームプランはこうだった。
「(早稲田のPG)18森井君のところからどれだけアシストをださせないようにするか。
やられていいところと、そうじゃないところをハッキリする。
7石原君も怖かったんですが、最後は他の選手を輝かす森井君だと思っていた。森井君が生きてくると脇役までやられてしまう。
逆にサイズが小さくなった分だけやりづらかった。センターの26富田君が出てくると思っていたので、準備をしていた。
8新川君とか27濱田君が出てきたほうがやりづらかった」(松藤監督)
予想外に途中で点差が開いたものの、最後早稲田にまくられてアップアップ。
リードしたことで逆に焦ってしまった。
「東海リーグでもそんなにリードできない(苦笑) 逆に受身になってその点数を守りに行ってしまった。
ほとんどボード使わず、気持ちのことばかりを指示していました」
結局、66-58でアップセット、ベスト8入りを果たした。
中京大のチームビルディング
東海リーグも昔に比べ様変わりしてきている。留学生がいるチームも多くなってきた。
しかし中京大に、背の高い選手はいない、もちろん外国人もいない。
ディフェンスをコツコツやるのは当然で、あとはボールをみんなでシェアしてパスを回す。
誰か1人でやるのではなく。44伊藤が中心にみんなでボールを動かす。インサイドアウトのバランスを使いながら、
「地道にフリーを作って積み上げていく。ずっとやってきたことです」
今年のよさは、2・3・4年のバランスがいいことをあげる。
試合に出てない選手もたくさんいるが、彼らたちが一生懸命練習、下級生の面倒を見る。
「去年名古屋経大が8強となり、久々にシードを東海リーグにもたらしました、
そのシード権を守れたので、東海学連理事長としてもうれしい。プレッシャーかかってました(笑)
もう一つ勝つと、東海学連にインカレ出場枠が増える。
それは地方にとってくるとめちゃくちゃうれしいこと。
欲を出したい。選手はみな頷きました。
オールジャパンがあったら、正月までできるという話ができたんですけど。
今年からインカレ枠がないから、最終日までユニフォームを着れるけど、次も欲を出そうと。
神奈川大だってやった。俺たちもやれる。
今年のチームは、4年2人に下級生がどうからむか。
下級生がミスしても思い切ってやっていいぞと許してくれる4年がいました。
数年前のほうが能力の高い年はありましたし、そっちに期待していた」と言い切る。
松藤自身が余裕が出てきたのかもしれない。
大型選手がいるチームを想定してやってきた。
地方のチームの頑張り。そのために大学の教員になったようなものだ。
当初、大学に戻るつもりはなかった。戻ってからは、
「何とか関東中心の学生バスケット界に一石を投じたい。
それがなくなってしまうと、意味がないと思っている」
2人のキャプテン
ゲームキャプテンの44伊藤はバスケットで引っ張るタイプ。
チームキャプテンは、81木島。コート以外の部の規律とかチームをまとめてくれる。
役割分担ができている。調整役だ。
チームキャプテン(部長)の木島は言う。
「僕としては、キャプテンと部長の違いは何かと考えました。
キャプテンはバスケットのこと、試合のことだけを考えてくれれば、チームを引っ張ってくれればいい。
部長はそれを影で支える。
大和(伊藤)がストレスになることは全部自分がやる。それでチームのプレーが底上げされるならやっていきたいと思いました。
去年のリーグが終わってすぐ、来年どうする、という話になって決まった。
この1年、充実して早かった。毎日、自分がやらなくてはいけないことを探していました。
自分しかできないことをやるようにしていました。
全員が気持ちよくプレーできるように。それがやりがいでした。
言葉じゃなく、行動で示せればいい。
部員が乗る大きな船の舵は松藤先生が取るんですけど、
僕らクルーがどうつながるかも大事だと思って、僕が中間にいて学生と先生の距離が近くなって、
今、チームの雰囲気がいい。
一口にベスト8といっても大変です。
うれしかったけど、まだ引退じゃなくてバスケができるんだという喜びがでかかったです。
強くなったのは東海で競いあえたから。シードも名古屋経大のおかげです」(木島)

センター笹井、ベンチの端に木島は陣取る
ゲームキャプテンの伊藤は、
「学校面では木島にやってもらって、申し訳ないと思っています。
自分はバスケットの面だけ。試合で流れが悪かったら、ディフェンスで守りきれていないところ、
集中できていないところを僕は喝を入れていきたい」と、語る。
2人のキャプテンの仕事は、松藤が4年のキャプテン時にやっていたことを分担しているような気がする。
それぞれの良さを引き出して、なおかつまっとうさせたことが成功につながった。

意識改革
今回、中京大のがたいの良さが目を引いた。スレンダーな伊藤以外はみないい身体をしている。
全員でトレーニングやらない時も個人でトレーニングして意識は前より高まっている。
特に、新潟商時代は控えだったスモールセンター30笹井はがたいを生かしたプレーにとどまらず、絶妙なアシストも見せる。
「率直にうれしい。去年インカレに出れなくて、1年間積み上げてきました。
ディフェンスから。ウエイトもたくさんやって、“基礎から作り直そう”と始まりました。
自分の取りえは、センターとして背は高くないんですけど身体を張ったプレーとか、中でも器用にやれること」と、
笹井は胸を張る。
「東海リーグでも年々留学生が増えてきて、名古屋学院1年の王とかはフィジカルが強くて技術も高い。
関東のチームも身体が強いので当たりが強いので日頃から意識してやっています。
早稲田戦の勝因は、ベンチもスタンドの応援席も一丸となって戦えたこと。
それが後押しとなった」と、言う。

「お前が舵を取れ」
あの時の松藤は大学1年、18歳だった。普通の監督ならば、ルーキーにチームの命運を託さない。
さすがは小林監督、先見の明の鋭さに脱帽だ。
その思惑通り、次代に継承された。
「20年かかりました。もう38歳。教員として戻ってくるとは思わなかったですけど、
大学に戻って9年。長かったなぁ。やっと勝てました。
過去選手はもっと今よりもいい選手がいましたけど、なかなか勝てなかった。
僕自身がその目線に行くまで時間がかかったのかもしれない。
変に関東のチームばかり意識したし、変に自分たちの足りないことばかりを求めていた。
リクルートも、時間がかかりましたが高校の先生がいい選手を送ってくれてありがたいです」
松藤監督は、選手に、高校の監督たちに感謝する。
天国の小林平八・元監督は今大会の中京大の躍進をどう見ているだろうか。
西日本準優勝は大学4年時の2001年、監督として2014年の2回。
東海リーグ制覇は2014年。24年ぶり29回目のリーグ王座奪回だった。
今年インカレベスト8。
おそらく、眉毛をぴくりともせずに、ニヤリ一言。
「まだまだだ!」
51人の部員を乗せた中京大の新たな船出は、舵を切ったばかりだ。
インカレレポート1 神奈川大の“原点”
2017.12.05
インカレレポート1
神奈川大の“原点”ストーリー

リーグで1部昇格、3回目のインカレで初のベスト8と躍進を遂げた神奈川大。190㎝台は誰もいない。
小粒チームながら、ディフェンスで仕掛け、無心にゴールにアタックする魅せられた人も多かったのではないか。
スタンドで見ていた人が、最初は席に座っていたのが、途中からいても立ってもいられないという風に
最後まで立ち上がって観戦していた。
そんな、観客を熱くさせる大学バスケット界の新星、神大の“原点”をさぐってみたい。
幸嶋 謙二監督インタビュー
リーグ戦終盤で、日体大と中央大に競り負けてしまいました。
もしも、あれでがっくりしてたら、勝ってもうれしくなかった。
そこが今年の4年がしっかりしてくれていた部分、その姿勢はずーっと続いているんです。
順位決定戦、インカレと「一喜一憂しないで、毎日ベストを尽くそう」と言っていました。
最終週火曜の練習もいい内容で終われ、国士舘戦もいい内容で終われた。
結果的にはよかったのかな、と考えています。
順位決定戦の東海大との一戦目で戦い方を変えてきてさすがは陸川さんだなと感じました。
この1週間で東海大はプライドを持ってくる。
戦術は変えましたけど、東海大との試合に勝たなかったら「チームが増えただけじゃん」、と言われるのが凄い悔しかった。
消化試合みたいな空気の中でそう思っていました。
同門対決。東海大は目標にしていたチームです。
陸川さんは、一番の目標にしてる人。
1部に上がれたのは、3部に落ちたからなんです。
そうじゃなかったら、2部の中くらいで終わっていると思います。
「このままじゃ駄目だ」と意識が変わりましたから。
まず僕自身が変わったし、去年の4年生、今の阿達ら4年が教えてくれました。それが学生スポーツ。
学生スポーツ冥利に尽きる部分。
きれいごとで、逆境が強くするとか、努力は裏切らないとか、とかありますけど、絵に描いたような逆境で強くなりました。
でも、そこで心折れたら何も残らない。あきらめたり、ベクトルが外を向いたりするところを学生たちがまっしぐらに突き進んでくれた。
その結果、他力本願(中大と日体大の試合結果次第)になってしまいましたが
1部に昇格できたんだと思います。
創部以来初の1部。僕自身は18年目になります。
スポーツ推薦が始まって8年目。
綿貫瞬(2部昇格時のエース。京都ハンナリーズ)たちもまだスポーツ推薦がなかった時代。
「神大らしさってなんだろうね」と、常に問いかけてきました。
神大らしさとは、スポーツ推薦がなかったころも一生懸命やってきたこと。
それをこの2年間で原点に振り返れたし、
神大らしさにプライドを持てるようになった。
選手にはホント感謝しかないですよ。
18年前…
4部でした。たまたま、前任の監督さんと飲み会の席で僕の前にいたのが縁です。
当時僕はは丸紅のスタッフでした。休部ということになり、たまたまそこにいた人が監督さんでした。
「暇があったら教えにきて」といわれて、
そこからボランティアコーチとして5年ぐらいやっていました。
勉強のために筑波大大学院に行かしてもらったのが10年ぐらい前でした。
筑波大・吉田監督は東芝で一緒だったのでよくしてもらいました。後藤正規(アイシン。現在は浜松開成館)君たちと同期でした。
最初の1か月でやめさせてくれ、と言ったのを覚えています(笑)
練習に来ないんです。あの時も環境はよくなくて、
トーナメント前で、試合の前だからと日曜に体育館を取ったら、5人ぐらいしか来ない。
体育館は週4日しか使えませんでした。
前任のOBの方も日曜しか来れなくて、指導に飢えていたんですね。
「もう一度チャンスをください。頑張るから」と。
そこが始まりなんです。
あの代の選手たちとはいまだにつきあいがあります。その時手伝ってくれた尾鷲Aコーチはいまだに
続けてくれています。
東海大の陸川さんから聞いた話。
「同じ山道があっても、陸川さんが昇る山道と、長谷川さんが昇った山道がある」
同じルートは通らない。僕は何年もかかって裏からぐるぐる回ってる。時間はかかっても、あきらめたくないんですよね。
うちは、サイズはないですが3年の工藤が凄いと思います。バスケットIQ高いし、身体も強い。
よく練習もしています。周りからはうちはサイズがなくて、ミラクルみたいに言われていますが、
工藤はうちにとって留学生なみの仕事をしてくれていますから。

1年の#75小酒部みたいなびっくりするような選手も入ってきてるし。
県内の山北高校出身で、高校時代は県大会2回戦で40点差で負けたチームにいた子です。
それが順位決定戦の試合は22点、13リバウンドですから。これから身体作りをさせます。
(続く)
神奈川大の“原点”ストーリー

リーグで1部昇格、3回目のインカレで初のベスト8と躍進を遂げた神奈川大。190㎝台は誰もいない。
小粒チームながら、ディフェンスで仕掛け、無心にゴールにアタックする魅せられた人も多かったのではないか。
スタンドで見ていた人が、最初は席に座っていたのが、途中からいても立ってもいられないという風に
最後まで立ち上がって観戦していた。
そんな、観客を熱くさせる大学バスケット界の新星、神大の“原点”をさぐってみたい。
幸嶋 謙二監督インタビュー
リーグ戦終盤で、日体大と中央大に競り負けてしまいました。
もしも、あれでがっくりしてたら、勝ってもうれしくなかった。
そこが今年の4年がしっかりしてくれていた部分、その姿勢はずーっと続いているんです。
順位決定戦、インカレと「一喜一憂しないで、毎日ベストを尽くそう」と言っていました。
最終週火曜の練習もいい内容で終われ、国士舘戦もいい内容で終われた。
結果的にはよかったのかな、と考えています。
順位決定戦の東海大との一戦目で戦い方を変えてきてさすがは陸川さんだなと感じました。
この1週間で東海大はプライドを持ってくる。
戦術は変えましたけど、東海大との試合に勝たなかったら「チームが増えただけじゃん」、と言われるのが凄い悔しかった。
消化試合みたいな空気の中でそう思っていました。
同門対決。東海大は目標にしていたチームです。
陸川さんは、一番の目標にしてる人。
1部に上がれたのは、3部に落ちたからなんです。
そうじゃなかったら、2部の中くらいで終わっていると思います。
「このままじゃ駄目だ」と意識が変わりましたから。
まず僕自身が変わったし、去年の4年生、今の阿達ら4年が教えてくれました。それが学生スポーツ。
学生スポーツ冥利に尽きる部分。
きれいごとで、逆境が強くするとか、努力は裏切らないとか、とかありますけど、絵に描いたような逆境で強くなりました。
でも、そこで心折れたら何も残らない。あきらめたり、ベクトルが外を向いたりするところを学生たちがまっしぐらに突き進んでくれた。
その結果、他力本願(中大と日体大の試合結果次第)になってしまいましたが
1部に昇格できたんだと思います。
創部以来初の1部。僕自身は18年目になります。
スポーツ推薦が始まって8年目。
綿貫瞬(2部昇格時のエース。京都ハンナリーズ)たちもまだスポーツ推薦がなかった時代。
「神大らしさってなんだろうね」と、常に問いかけてきました。
神大らしさとは、スポーツ推薦がなかったころも一生懸命やってきたこと。
それをこの2年間で原点に振り返れたし、
神大らしさにプライドを持てるようになった。
選手にはホント感謝しかないですよ。
18年前…
4部でした。たまたま、前任の監督さんと飲み会の席で僕の前にいたのが縁です。
当時僕はは丸紅のスタッフでした。休部ということになり、たまたまそこにいた人が監督さんでした。
「暇があったら教えにきて」といわれて、
そこからボランティアコーチとして5年ぐらいやっていました。
勉強のために筑波大大学院に行かしてもらったのが10年ぐらい前でした。
筑波大・吉田監督は東芝で一緒だったのでよくしてもらいました。後藤正規(アイシン。現在は浜松開成館)君たちと同期でした。
最初の1か月でやめさせてくれ、と言ったのを覚えています(笑)
練習に来ないんです。あの時も環境はよくなくて、
トーナメント前で、試合の前だからと日曜に体育館を取ったら、5人ぐらいしか来ない。
体育館は週4日しか使えませんでした。
前任のOBの方も日曜しか来れなくて、指導に飢えていたんですね。
「もう一度チャンスをください。頑張るから」と。
そこが始まりなんです。
あの代の選手たちとはいまだにつきあいがあります。その時手伝ってくれた尾鷲Aコーチはいまだに
続けてくれています。
東海大の陸川さんから聞いた話。
「同じ山道があっても、陸川さんが昇る山道と、長谷川さんが昇った山道がある」
同じルートは通らない。僕は何年もかかって裏からぐるぐる回ってる。時間はかかっても、あきらめたくないんですよね。
うちは、サイズはないですが3年の工藤が凄いと思います。バスケットIQ高いし、身体も強い。
よく練習もしています。周りからはうちはサイズがなくて、ミラクルみたいに言われていますが、
工藤はうちにとって留学生なみの仕事をしてくれていますから。

1年の#75小酒部みたいなびっくりするような選手も入ってきてるし。
県内の山北高校出身で、高校時代は県大会2回戦で40点差で負けたチームにいた子です。
それが順位決定戦の試合は22点、13リバウンドですから。これから身体作りをさせます。
(続く)
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